ノンプログラマーに求められるもの

ノンプログラマーがプログラミングを覚えることにより普段の業務負担を軽減させる、みたいな流れが徐々に活気を帯びてきたというか、この本なんてその象徴のようにも思えるのだけど

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ふと我が身を振り返ってみると、ぼくが趣味でプログラミングをやってるのって、そういう理由というか目的というかモチベーションではあまりなくて、もちろん、そういう効果があれば嬉しいし、実際にはあちこちで発信しているように、プログラミングを習得すればするほど「今までこの作業ってVimPerlやGitを使わずにどうやってたんだっけ……思い出せないし思い出したくもない……」と思うぐらい様々な負担が軽減、またはそもそも不要になっていたりするのだけど、でも気持ち的に、なんでプログラミングをもうかれこれ4年近く続けてやってきたのかっていうと、それはたぶん

《日々の業務があまりに地味かつ長期的で、目に見える効果というものがわかりづらくて、それはまるで人が年齢を重ねていくような、「昨日と今日の違いがほとんど認識できない」ぐらいの変化の無さだから、そういうものとはまったく逆の「一瞬で目の前の世界がガラッと変化する」ような体験を求めて、プログラミングとかテクノロジーとかに希望を託している 》

ということなんじゃないかなあ、と思った。

言い換えると、日々の業務の負担が減るっていうのはたしかに嬉しいことで、村上春樹いうところの「小確幸」なわけだけど、じゃあそれがわざわざ貴重な時間を割いてまでやる「目的」とか「欲望の対象」になるのかっていうとそれにはちょっと弱くて、欲望の対象としてはだから上記の「これまでに見たことのない風景を見てみたい! 味わったことのない気分を体験したい!」みたいな気持ちがあって、結局はそれに向かって一生懸命コンピューターに向かい合ってるという感じがする。

それはほとんど人生を賭けた、生きる意味やテーマのような営みだから、その手段はプログラミングでなくたって構わないとも言えるんだけど、さしあたって現時点ではその過程にプログラミングがあるからそれに時間をかけている、というような。

でも実際には、プログラミングというのは自分が手を動かして英数字などを打ち込んでいかなければ(少なくとも2017年の現時点では)身についていかないわけで、頭の中で「こうなってほしい!」とか念じるだけでは出来てくれない。

何を言いたいのかというと、これってやっぱり一朝一夕に習得できるものではなくて、どうしても時間はかかるということ。

で、それって何に似ているかというと、たとえばスポーツとか、語学とか、あるいは楽器の練習。高い楽器を買って、さあやるぞ! となってもそれが身につくまではずっと自分の体を動かしてくり返し練習しなければならないわけで、さらにはそれを「趣味」でやるということは、普段の仕事は仕事として頑張った上で、その合間に、つまり本来なら娯楽を楽しんだりゆっくり体を休めたりできたはずの時間をつぶしてそれをやらなきゃいけない。

さらに言うなら、結局はそんなふうにわずかな時間を繋いでやっているだけだから、プロとしてやっている人たちとの差はみるみる開いていくわけで、いやそんなの当たり前なんだけど、でもどうしたって「自分より年下のあの人はあんなに出来るのに、なんで自分の上達はこんなにも遅いんだ……」って比べて思ってしまうのもまた自然というか。

つまり、趣味でやるっていうのは結構大変。上達の実感はいつも理想の遥か後ろを遅れてやってくるし、当初憧れたようには全然できないまま時間がどんどん過ぎていく。

それでもぼくがここまでそれを続けてきたっていうのは、だから「日々の業務の負担を軽減したいから」というだけのことではなくて、その向こうにある「なんか知らんけどスゴイ体験をしたい!」という感覚に揺り動かされてきたからだと思う。

そのある種の貪欲さというか、しつこさというか、諦めの悪さみたいなものに引っ張られてダラダラやっているうちに、結果として「なんか知らんけど業務もめっちゃラクになってる〜〜!」みたいなことがあるのかなと思う。

そんなことを踏まえつつ、冒頭に挙げた本のタイトルを見て思うのは、「コンピューターに退屈な作業をさせよう」なんて考えている自分自身はけっこう楽しい(退屈ではない)のだよな、ということ。

より具体的に言うなら、コンピューターにその作業をさせるためにちまちまコードを書いていく作業はけっこう楽しい。

さらに言うなら、そのコードを書く過程で素人なら必ずハマる。何度書き直してもうまく動かない。ちょっと、というかかなりイライラする。そして自分は自分で思っていた以上に馬鹿なんじゃないか? という底知れぬ不安に襲われる。もう何度も棚から取り出しては戻した参考書の、ついさっき見たはずの正規表現のルールをもう忘れてしまって、誰にも向けられない憤りにうんざりしながらまた棚から引き出す。頭はぐちゃぐちゃに溶けて煮詰まっているけれど、なんか踏ん切りがつかなくて深夜まで同じ箇所を修正し続けてしまう。そしてあるとき、突然視界がひらけるようにプログラムが動く。……お…おおおおお〜〜〜〜!!ってなる。……でも周りには誰もいないから、実際にはその叫びは頭の中だけに響いてる。深夜の静かなリビングで、自分とターミナルの黒い画面だけがある。

その無音なんだか轟音なんだかわからない一瞬の魅力に囚われてしまって、その景色をまた見たくて続けてるのかなっていう。

上では何度か「趣味」と書いたけど、だからこのような日々を送るぼくにとってはプログラミングを「趣味」と呼ぶのはちょっと違和感がある。
もちろん仕事なわけではないし、ましてや天職とか使命とかいう大げさなものでもない。

そうではなく、なんか本職でも娯楽でもない、「2つめの仕事」みたいな感じというか。
日本語ネイティブの人が英語も日常生活を送れる程度には喋れる、というときの「第二言語」としての英語みたいな。

そういえば最近、ラムダノートの鹿野さんが書いた以下の記事で、
employment.en-japan.com

IT系エンジニアとして仕事で使っているプログラミング言語ではない言語、つまり第二言語を学ぼうというシリーズ記事

というのが始まっていたけど、ぼくがここで言うのはそれの人生全般バージョンというか、能力としての第二言語、本職を支える副次的な素養みたいな。
そういうものとして、育てていけるんではないかなあ、という感覚が少しある。

その意味では、こういう自分のような人たちを「ノンプログラマー」であれ「非エンジニア」であれ、語の頭に否定形(ノンとか非とか)を付けた呼称で表すことには以前から違和感があったけど、たとえば「セカンドプログラマー」とか「オルタナプログラマー」とか、ぼくだったら編集をやっているので「エディター・プログラマー」とか、「*er Programmer」とか(読めない)、なんかそういう本職の方にフィーチャーした言い方がないかなあ、という気もしてくる。

「趣味」とか「アマチュア(愛好)」ではないのだよね。べつに愛でてるわけではなくて、自分だって早く風呂に入ってさっさと明日に備えて寝てしまいたいんだけど、どうしてもさっきwhileで無限ループした理由が腑に落ちなくて、何度もいろんな場所の変数の中身をプリントデバッグしていたらもう外が明るくなってきたとか、そういうのは愛好ではなくてもう狂気に近い。というか非常識。

上で挙げた鹿野さんの、以下のインタビューも面白かったんだけど

itpro.nikkeibp.co.jp

その最終回にあった以下のくだりが印象的で。

私がオーム社でやっていた本の作り方は、会社から見れば特殊な作り方です。私しか作れない本が増えてきてしまった。会社からは「ほかの社員もできるようにしてほしい」と言われて広めようとしたのですが、うまくいきませんでした。私たちと一緒に仕事するときはバージョン管理などの仕組みを使ってくれるのですが、そうした社員も自分から使おうとはしなかった。

この最後のところ。「自分から使おうと」するかどうか、というのは、ようは上に書いたような「気づいたら時間を忘れて夢中になってた」みたいな感覚があるかどうか、ということだと思う。

そういうのがなきゃ駄目、という話ではなくて、というか誰にだってそういうのはあるはずで、単に対象がプログラミングかそうでないか、という違いがあるだけだろう。

とくにまとめもオチもないのだけど、つまりはプログラミング、結構大変。ぼくの場合は大学も美大で、授業でプログラミングとかなかったし、初めてパソコン&ネットに触ったのは28才で、初めてハローワールド!出したのは38才。だから世代や環境が違えばまったく上とは別のことが言えるかもしれないけど、いずれにしてもこういう人がこういうことを続けるには、「目的」とか「目標」とか「覚悟」とかではなくて、自分でもコントロールできないそういうある種の過剰さみたいなものが必要なのではないか、という気がしている。